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2017年5月までの今日の章寛さんtoday


ーより深く、より長く、生きるためにー 章寛さんの“今”を出来るだけ早くお伝えします

■5月17日 章寛君元気です。  4月にも面会に行きましたが、忙しさにかまけて報告が出来ませんでした。5月17日はまず黒原弁護士が午前中面会に行き、午後事務局が面会に行きました。どうしてそのようなことになったかというと、そもそもその日の午前中に弁護士が面会に行くという連絡はあったのですが、黒原さんが博多に事務所を開設し、まだ訪れたことがなかったので、チャンスだと思ったこと、久しぶりに会って溜まっている懸案について直接会って話したかった、それにそこで四国のKさんが働きはじめたので、彼女にも会いたかったこと等で無理やり事務局の面会もその日に持っていきました。私の面会は主には、うちわ制作の最終的打ち合わせと、被害者遺族Mさんの状況ををある程度章寛君にも理解してもらうためでした。うちわの制作に関しては発注用の版下を持って行ってしっかり確認してもらいOKをもらいました。Mさんの件に関しては、「そういうことがあって、むしろ当たり前だと思います」といたって冷静に受け止めていました。それでも今までと気持は変わらない、償いを続けていく、ということでした。とても立派な態度、受け止めでこちらが救われました。「部屋が変わりました」ということで、前より少し広い部屋に移ったこと、トイレが洋式になって良かった(宮崎の時も洋式だったのが福岡では和式で結構きつかった(笑))。だけど窓が無くなって外が見えなくなってしまった、来年は桜も見れそうにありません、と少し残念そうでした。明るい顔で話してくれていましたがこの件に関してはこちらが心塞がる思いでした。でも全体としては表情も良く、前向きで元気な章寛君でした。良かったです。

■3月7日、章寛君復調気配、元気でした。  この日は前もって面会にいくことを手紙で伝えて会ったのと、黒原弁護士が3月2日に面会に行っていて、荒牧への伝言もメールで伝えてくれていたので安心して出掛けました。面会室に入るとすぐに章寛さんから「今日は僕から伝えたいことがあります」と話が切り出されました。まず最初に(地元求菩提の宝寿寺の』『矢鳴哲雄さんとの手紙の交流が許可されたとたった今拘置所から話がありました」と嬉しそうに教えてくれました。以前から矢鳴さんも面会したいと言ってくれていたのですが、まずは手紙からはじめて実績を重ねればいずれ面会も許可されるかもしれません。宝寿寺は奥本家の菩提寺であり、幼いころから章寛君をよく知り、しかも仏教についてもいろいろと語り合えるということで、章寛くんにとってもとても有難い外部交流になると思います。話が深まっていくことを願います。それからもう一つがお母さんへの伝言をことずかりました。「くるぶしソックス」の差し入れ希望でした。靴下は5本指のくるぶしソックスにかぎる、ということです。四国の河村さん姉妹から切手の差し入れがあったことも教えてくれました。荒牧との話は今年制作のうちわの件がほとんどでしたが、章寛君の希望がやっと良く分かりました。もう下書きは出来ているとのことで4月中には絵を届けてくれるそうです。凄い情熱なのでこちらも気合を入れて制作します。前々回の面会の事や、前回の面会時もやや調子が悪そうだったので気にかかっていましたが。3月になり春の気配とともに章寛君の調子も復調気配です。最後に恩赦の請願の却下というような通達はまだ来てないということを聞いて少しホットして面会室を後にしました

■7日、面会に行きましたが会えませんでした。  1月中は公私ともに多忙を極め1月31日、2月1日と被害者遺族Mさん、Kさんに会うため宮崎に行ったこともあり、とうとう章寛君との面会には行けませんでした。2月になったらすぐに行こうと考えていましたが、2月3日には黒原さんが面会に行くということも聞いていたので、2月7日に面会に行くという手紙を出しておいて実際7日に福岡拘置所に行きました。13日にはMさんと一緒に行くことにもなっていたのでそのことについても話しておこうとか、この間のあれこれをメモして面会待合室で待っていました。その日は19番でしたが順番が16番までよばれたところで突然「19番の方」と呼ばれて「おっ、早い」なんて喜んで受付に行ったところ「本人が今後一般面会の方とは会わないと言っています。我々にはどうしようもないのでお引き取り下さい」と言われて、一瞬頭が真っ白でした。何があったのか、俺が何かまずいことしただろうか?等いろいろ考えましたが、豊前に帰りつく頃は、あれは拘置所か国の意図ではないのか、執行が準備されているのではないかと心配になり、あちこちに連絡しまくったりもしました。結局その後の両親の面会、13日の面会、手紙などによって状況が分かって来ました。やはり本人の意思での面会拒否でした。ただ誰が来たかということは告げられないのと、手紙はその日の午後着いていたので荒牧だということは意識しなかったようでした。冬場ということもあって気圧の変化などで頭が痛くなることがり、なにもしたくない、誰にも会いたくないという日がちょくちょくあるそうです。はっきりとは言いませんが外の人間(家族、支援者)が期待に応えてくれなかったり、頼んだこと、問い合わせたことを的確にやってくれないことへの不満やいらだちもあるようでした。改めて章寛君の立場や状況を考えると無理も無いと思います。多分時間の密度がまるっきり違うのでしょう。拘禁症状がでているのではないかとも恐れましたが、それは大丈夫みたいです。13日のMさんとの面会の折りは終始、笑顔や談笑できて明るかったのですがそれでも若干の不調は隠せない感じでした。13日は誕生日で29歳になった日でもあり、事件の日3月1日が近いということも影響しているかもしれません。そういえば昨年も、一昨年もこの時期は落ち込みぎみだったような気がします。外に居る我々がもっと気をつけ、意識してなんらかの働きかけや励ましを心がけたいと思いました。2月23日には手紙が届きました。文面から大分回復している感じが伝わってきて少しほっとしています。

■1月12日、2017年最初の面会にご両親、黒原弁護士が福岡拘置所を訪れました。  たまたま重なった黒原さんとご両親の面会でした。時間調整をして先に黒原さんが入り、終了後ご両親が入りました。黒原さんとの面会はカレンダーの絵のことと昨年東京で行われた、仙台の元少年Cさんの弁護団との交流、研究集会についての話から始まったそうです。仙台のCさん及び弁護団との何らかの繋がりについては章寛君も意欲的だそうで、黒原さんがある肝心なものを持ってくるのを忘れたということで怒られた?そうです。それから、今やってる大相撲の話になり、章寛君の今の注目株は高安と正代、それに十両の宇良という力士で組手の話や、得意技、腕の返しなどとても知識が豊富だと黒原さん驚いていました。もちろん、TVでの視聴は出来ないのでラジオにかじりつき状態で聞いているそうですが、せめてTVの放送くらい見せてあげたい、と黒原さんはじめみんな思ったことでした。それから、再審請求についてある程度細かく話したそうです。あまり間をおかずに次にご両親が面会したのですが、面会が続いたせいかご両親の時はややそっけなかった、と浩幸さんは少し淋しそうに言ってました。それでも寒さにもめげず体調そのものや、精神状態は良好のようでした。

■10月14日  またもこのコーナーがこんなに間が空いていたのか、と驚いている始末で報告が遅れてしまいました、申し訳ありません。私も毎月1回は面会に行っているので前回は9月に行っています。その間に手紙のやり取りも数回は重ねています。併せてご報告します。今日10月14日に面会に行きました。今日は20分の時間がありました。出てきた章寛君は髪をさっぱり切っての丸刈り。少し細身に見えたのは髪型のせいだったと思います。3日前に弟さん家族が面会してるのでそのことを言うと、とても嬉しそうに、『会えると思ってなかったので、とてもびっくりしました』と嬉しそうに話してくれました。ただ、やはり、弟たちの顔を見ると改めて自分のしたことの罪の大きさを感じるとも。2日前の黒原さんの面会では福井の人権大会のことを確認したという事、カレンダーについてはすでに絵を7枚くらい送っているので、次の面会でゲラを確認刷ると言う事。  私との手紙のやり取りの中で、自衛隊時代の先輩さんがメールをくれたこと、その返事を昨日直接伝えたことを話すととても嬉しそうでした。  (筆者からの御断り)こうやって報告を書こうとするのですが、間が空きすぎているのと、大事な事がたくさんあるのに少しずつ差しさわりが感じられて、細かく報告が出来ないのでなんとも情けない文章になって、ちっとも今日の章寛さんが伝わらない、と自分でも情けなくなります。(気を取り直して) 被害者遺族の方々との関係、再審のこと、章寛君の日常等これからもう少し細かく工夫して書いていきます。今日の面会の印象を言うと、一生懸命やること、やれることを毎日やりながらもやはり執行への恐怖と取り返しのつかなさに必死で耐えているのだろうと感じました。そんな気配を感じさせないように章寛君の方が気を使っているのがなんとなく解りました。本当の意味で章寛君を勇気づけ、前向きに生きていける言葉や働きかけが必要な気がします。とても難しいことですが。

■面会に行ってきました。 8月3日面会に行って来ました。朝早い方が気持ちがいいのでAM6時半頃出発したところ、9時頃拘置所到着。差し入れなど澄まして順番を待っているとどこかで見たような人が同じく順番待ち。もしかしたらと思い声をかけました。「もしかして、たんぽぽの会の方では?」 以前福岡事件の西さんの集会の時ちらっとお会いしていた方でした。驚いたし、嬉しかった。お陰で待ち時間もあっという間にすぎて、会話の途中で「11番の方面会4号室へ」と早々呼ばれました。出てきた章寛さんは髪もさっぱりして、血色もよくすこぶる元気そうでした。まず、差し入れの確認をしました。今日は埼玉から熱心に支援を続けて下さっている方からの「花だより」というのを入れたということを一番に伝えました。埼玉のIさんが5月から毎週花の写真を送ってくださっていたのですが、何か郵便物が来てる事だけは教えてくれるものの、本人には届かないでいました。それを、事務局あてに郵送してもらい、事務局がまとめて差し入れたというわけです。誰からだろう?という謎が解けたということと、花の写真ということで章寛さんもとても嬉しそうでした。それもあって、次は絵の話、今回のうちわのでき具合、共命鳥の表紙のイラスト等など。絵を描くということについて話が盛り上がりました。順番が早かったせいか、今日は20分とってもらっていて、途中ではかなり余裕があるような気がしていたのですが気が付いたら、後一分半とか言われて後半話したかったことは尻切れトンボで終わりました。(長野に行って来た事など) それでも元気だったということが何よりでしたし、、来年はもっといいうちわを、もっといい絵を描きたい等意欲的な章寛さんでした。

■6月29日 久々、面会に行きました。  章寛さん報告がこんなに出来ていなかったことをお詫びします。法人設立や事務所開設等にかまけてこのページがこんなに空いてしまっていたことにすら気がついていませんでした。6月29日に面会に行って来ました。前回が確か5月6日、被害者遺族Mさんと一緒に行って以来なので1カ月半ぶりの面会でした。面会室に入って来た章寛さん、相変わらずの笑顔で迎えてくれました。髪はさっぱりと切ってあって、やはりすでに暑さ対策もあるようでした。この日も15分しかないということで用意して行った質問をこちらからたくさんならべました。まずは元気かい?から。「体は元気なんだけど、精神的に今ひとつです。」という答え。それでも絵の事など話してこの辺からお互いに調子がでてきました。両親からあずかった2,000円とジブリ関係の本3冊差し入れた事。オークスから1万円毎月差し入れるという事。かなりえんりょや恐縮をみせながらも「有難うございます。喜んで使わせてもらいます。絵を描くことにもっと力を入れます。」その答えをうけてフォーラム90の絵画展募集に応募してはどうか?可能なら私から問い合わせ、応募してみるけど、という問いにはかなり恥ずかしげに「いや、僕はまだまだ、そんな応募なんて」と言っていましたが最終的にOKをくれました。恩赦の請願が却下されたかどうかについては今のところ、何の連絡も無いということ。被害者遺族Mさんと又会いたい、ということ。そんなこんなを含めオークスでも再審の準備を始めていること、等を手短に伝えあいました。最後に章寛君から、「宮崎拘置所に居た時みたいにもう一回気持ちを立て直します」と言ってもらえてこちらが励まされました。ご両親への手紙などから、少しいらついていたりするかな?と心配してましたが(両親には何となく甘える気持ちがあるのでしょう。それでいいと思います))、やはり気配りの章寛君でした。来月からは出来るだけ頻繁に面会に来る事を約束して面会を終了しました。それにしても短すぎる時間を改めてうらめしく思いました。

■3月9日 黒原弁護士の面会報告から まず、最初に『ねえ、聞きましたか?弟のところに子どもが生まれたって!』という第一声。そして黒原さんでも初めてかな?というような笑い声を発しながらの歓談になったそうです。よほど嬉しかったのだと思います。そうなのです、3月初旬に甥っ子になる子が生まれたのです。ラジオや新聞でずっと、悲しい死のニュースばかり見聞きしていて、落ち込むことの多かった章寛さんにとって、新しい命の誕生はそれだけで希望につながるものだったと思います。ついでに黒原さんに『先生も早く結婚したほうがいいですよ』(黒原弁護士は独身です。誰か希望者いませんか?)、という言葉に黒原さん絶句!という一こまもあったそうです。  3月13日にはご両親と支援者4名が宮崎に行って亡くなった3人の方の法用に行くと伝えると、読経のための費用として、これまで頑張って来た自己契約作業から1万円の宅下げを黒原さんに託しました。書きためた写経(250枚?くらい)もお供えしたかったようですが、それは宅下げが間にあわず残念がっていたそうです。  被害者遺族Mさんの面会についてもとても喜んでいたということで、今後も継続した面会が実現して欲しいと言っていたそうです。先日は手紙を書いているということでしたが、章寛さんからMさんあての手紙は届いているでしょうか?

■2月の章寛さん 又もや、まとめ書きになってしまいます。お許しください。2月の13日に章寛さんは28歳になりました。たまたま荒牧の面会が12日だったのでそのことのお祝い的言葉をかけました。また福岡のたんぽぽの会さんは寄せ書きを書いてくれていましたので、後日ですが、黒原さん経由で直接見てもらいました。(2月23日)宮崎のNさんにはこんな手紙を送っていましたので少しだけ紹介します。『もうすぐバレンタイン。その前日が俺の誕生日。差し入れなんかなにもいらないよ。”ボクサーパンツ”なんかいらないからね。Mサイズのヒートテックではないかっこいい柄のものはあきたから、かわいい柄・色のボクサーパンツがあったらそういうものを送ってくれたらうれしいな、とか思ってないから(笑)』  と。彼女にだけは飾りの無い素の章寛さんが表現できるんですね。被害者遺族Mさんの面会もとても嬉しかった出来ごとでした。お互いの顔を見て話せたことが何よりよかったみたいですし、Mさんがかけてくれた言葉や、後日新聞に載った『章寛がそこにいてくれることが自分の支えになっている』『あいつが中でつらくても頑張っているので僕も頑張ろうと思う』という言葉に驚きつつ、感激していました。ただ、申し訳ないという気持ちが又湧きあがってくるので、ある意味つらい感じもあるそうです。3月3日現在Mさん宛ての手紙を書いています。黒原弁護士との面会の折りには黒原さんをまたまた驚かせるような法律的知識を披露して黒原さんに『勉強になった』と言わしめました。(内容についてはいずれ、後日ご報告出来ると思います。)変化の乏しい毎日の中で無気力になっていかないよう、黒原さんは夏までの絵の宿題を出して帰ったそうです。(どうやら今年の夏は章寛さんの絵のうちわが出来るみたいです)久しぶりに変化の多い1月、2月。戸惑いや混乱も感じながら、それでも生き生きとした表情も見せてくれています。ご両親やお婆ちゃん達との面会時の様子はまた次回ご報告します。

■1月の章寛さん 昨年暮れの面会から、これまでにないペースでの手紙のやり取りがありました。12月30日、1月4日、1月19日、20日、そして、1月23日には正式に面会許可が下りたという知らせ。その間に面会は1月13日に2度目の面会、2月12日が3度目、そして、15日には被害者遺族Mさんと一緒に4度目の面会と続いています。 報告したいことがたまりすぎて、どこから書けばいいのか解らないくらいです。溜まってしまったのには理由があります。章寛さんの揺れている心情をそのまま伝えていいのかどうなのか?ご両親や、支援者にも見てもらいながらみんなで考えていたからです。詳細は一部省きますが、大雑把に1月の章寛さんの様子をお伝えします。12月30日の手紙は私も嬉しいことに再会出来たことを本当に喜ぶ内容が綴られていました。もう2度と会えないだろうと諦めていたこと、それが思いも掛けずまた会えて話ができたこと。私(荒牧)のようなものとの再会にも凄く喜んでくれたことがストレートに伝わってきました。そして、その後の手紙には福岡に移ってから『何かが失われていく感覚、』多分それは生きることへの気力といったものでしょうか?それが前回ご紹介した宮崎の幼馴染Nさんに送った手紙にも表れていたような、亡くなった奥さんと子どもさんへの思いや、早く又会いたいという思いだったようです。『今思うと宮崎時代にはいろんな人が面会や、手紙で自分を励ましてくれていて、それがあったからこそ心も体も、ある程度健全に保たれていたと思う。一人では何もできない、とてつもなく弱い人間だ』と自分の事を書いてもいました。 一方でこのままでは終わりたくない、罪の償いに向けても、自分自身の生に向けても前向きに向き合いたいという気持ちも書いていました。ある人から黒原弁護士経由で頼まれたというお地蔵さんの絵も描きあげて私に預けてくれましたし、もっと絵を描きたい。そのためにも故郷の何げないスナップ写真が欲しいなどということも。そういう意味では荒牧の面会再開が少し気持ちをざわつかせているのかもしれません。黒原さんは、そういうことこそ心情の安定に逆に必要なのだと言ってくれていますが。 2月15日には被害者遺族Mさんが面会に行ってくれました。現段階ではその時章寛さんが何を感じたかまだ解りませんが(荒牧は2,3分で席をはずしました。)きっと手紙でまた伝えてくれると思いますし、私や黒原さん、ご両親にも面会の折りに伝えてくれると思いますので次回からまた速報でお伝えします。 このあいだの大雪の時は特にひどかったようですが、とにかく寒い。使い捨てカイロを何個も身につけていることや、ストレッチを30分はやっていること、でも何より自己契約作業を頑張っていること、黒原弁護士の旅費の足しにと10,000円宅下げしたこと。等日常の様子も伝わってきています。 今回は(いつもに増して)どうにもうまく書けません。次回からまた頑張ってお伝えしますのでご容赦ください。

■12月25日、荒牧が面会してきました。 その日の章寛さんです。 12月25日、活動報告からの続きです。 章寛さんにも面会の事は全く伝えられていなかったらしく、面会室のドアの手前まで、誰が面会に来ているのかも解らない状態だったそうです。部屋に入るなり『あーっ!』というような、少し大きな声が(正確には聞き取れませんでした。)聞こえてから、満面の笑みを浮かべて椅子に座って対面しました。本当にびっくりした様子でした。 『一年振りですね。荒牧さんにはもう会えないとあきらめてました』というのが第一声だったように記憶しています。 『俺は諦めてなかったよ』と笑って答えてから、何故面会が実現できたのか伝えたかったのですが、なんとなく憚られてそこは曖昧のままお互いの健康状態のこと、懐かしい人の近況等話しました。顔色もよく、体つきもきっちりしまっていて決して痩せたという印象ではなく、すごく元気そうでした。(もしかしたら、今まで面会してきた中で、一番いい感じだったかもしれません。)そのことを言うと、『筋トレしてますから、今は太ももが心地よい筋肉痛です』と言うことでした。  これからは、月に最低1,2回は来れるから、手紙のやりとり含めて、あれをしよう、これをしようと話しあいました。ストップウォッチが容赦なく進んでいくので、焦りながら、そして、余計な事は言わないように、でも、これは、伝えなければ・・・という心理状況の中で、最低限のことは、伝えられたように思います。時計が0になったら、即立会の係官の人が『終了です』と告げ、本当にそこで、面会は終わりになってしまいましたが、部屋を出ながら、こちらを振り向いてもう一度最高の笑顔で『又会いましょう』と言ってくれました。 つい先日、2名の方が執行されて、この前のご両親の面会時には、元気がなかったということだったので、とても心配していましたが、今日は、深い覚悟をもちながらもしっかり前を向いている様子を直接見ることが出来て本当に良かったと思いました。 この日の面会も、これからも私の面会が章寛君の心情の安定に寄与する、ということに繋がらなければなりません。 そこに十分注意しながら、ですが、これからが楽しみです。  帰ってから、すぐに速達で手紙を出しました。差し入れ出来なかった通信3号を届けるためと、今日の歓びをつたえるために。 ・ 12月3日、宮崎の幼馴染のNさんが、章寛さんの手紙を転送してくれました。抜粋してご紹介します。

『今の心境かぁ・・・。いたって普通だと自分では思ってるよ。 人はいつか必ず死ぬし、いつ死ぬかはっきりとわかる人はいない。俺がここ(刑事施設、福岡拘置所)にいるのは明らかに俺に原因があるし、死刑になったも同様。俺が病死か刑死かわからんけど、それが嫌だという気持ちは限りなくゼロに近いと思ってるよ。その気持ちは煩悩だから、ゼロにしたくてもゼロにはできない。被害者三人や、その親族、俺の家族や親族、友人や知人、みんなに対してとてつもなく申し訳ないと思ってるよ。  時間が戻せたらな、とは何度も思ったし今も考えるよ。 妻と子供のことをしょっちゅう考えるよ。福岡拘置所の周りから子どもの声が良く聞こえてくるし、ラジオから子どもの声や家族の話題が良く流れてくるし、新聞や雑誌によく載っている子どもや家族の写真を見たりすると、妻と子供の事をより強く思いだすよ。出来れば早く妻と子どものもとにいきたいな。又一緒に・・・と思ってる。  俺が死んだらお参りに行くよって、前に手紙に書いてくれてたけど、子どもの事や家の事、ほったらかしにはしないでね。お参りに来てくれる時は心を落ち着かせて来てね。事故などを心配してる。  今の体重は64KG 。逮捕時と比べると−19kg。18kgは意図的に減らし、1kgは最近自然に減ったよ。 ほぼ毎日筋トレ、ストレッチをしてるから、細マッチョになりつつ(?)あるよ。  いよいよ寒くなってきた。Nさんも元気で。       11月25日(水)      章寛

■11月29日、章寛さんから手紙が届きました。抜粋でご紹介します。   

僕の家族は加害者家族ですが、被害者家族でもあるので、Mさんとの面会が認められてもおかしくないと思っていました。Mさんとの外部交通が認められて本当に良かったと思います。それが取り消しにならないように気をつけます。』   『先日、腰の爆弾を(小さいものですが)爆発させてしまいまい、いろいろ、難儀しています。顔を洗う時や、トイレの時(和式なので)、寝返りを打つ時などです。  日課の筋トレ・ストレッチが出来なくなりましたが、痛みが和らいだらすぐに筋トレ・ストレッチを再開しました。   まだ、全力では出来ませんが、悪化させないよう気をつけて行っています。筋トレ・ストレッチは毎日行わないと気が済まないようになっています。』  『僕が行っているのは、自己契約作業で、請願作業とは違います。僕は請願作業は出来ません。その作業を始めたせいで読書をする余裕・時間をすっかりなくしました。それに、読書をするより、したいこと、やらなければならないことが ありますので、読書の時間が激減しました。』  『僕が毎月定期購読しているのは、「大乗」(本願寺出版社発行)と「熱風」(スタジオジブリ発行)です。』 前者は、黒原弁護士に、後者は父母に差し入れてもらっています。』  『大切な人の尊い命を奪ってしまってから、そして、すっかり遠ざかってしまっていた仏教(浄土真宗)と再びで会ってからは”死”というものにとても敏感になりました。  ラジオを毎日聞いていますが、世の中には本当に悲しい死があふれています。事故死や自殺、いろいろな形での他殺など本当に悲しく思います。そういうニュースを耳にする度に悲しみ、落ち込んでいます。ほぼ毎日落ち込んでいますね。(苦笑)。そんな僕を癒してくれるのは、ラジオから流れるいろんな曲や、唄です。 ・

■10月9日 宮崎の幼馴染Nさんのところに届いた手紙からの転載です。  

ついこの前、入浴中に浴槽の中にウンコが沈んでいるのに、気づいたの。頭を洗い顔を洗い、体を洗って流そうとしたときだよ。ウンコに気付いたときは5秒くらいフリーズした。 何度もウンがついたかもしれないと、自分に言い聞かせたよ。ウンコだけにね(苦笑い)」 「俺の生活に変わったことは、特にないかな。自己契約作業はがんばってるよ。」 「そういえば、うれしいことがあった。来年、甥か姪か誕生するよ。もう一人の弟も来年結婚するかも。俺の家族も、Mさんもみんなの"幸せ"を俺は祈っとる。もちろん、Nさんのもね。9月は来年のカレンダーの絵を仕上げないといけない。花火の絵、やっぱり描いてるよ。もうすぐ完成する。色鉛筆画は色塗りがものすごく時間かかるから、集中力がなく飽き性の俺にはなかなか、難しいものがあるけど、なんとか頑張るよ。"償い"のためにもね。Nさんが送ってくれた本などをみて、モチベーションをあげてるよ。」

たわいもない会話ですが、あっくんの様子です。

■9月29日 手紙が来ました。 9月24日の黒原弁護士の面会、ご家族の面会、さらに荒牧のところへきた手紙などからまとめて報告します。  暑かった夏も終わって、拘置所の中も今は過ごしやすくなってきています。 お母さんに、早めの寒さ対策として冬物の下着やなんかを差し入れてくれるようお願いしました。昨年の寒さは相当こたえたみたいだし、手紙にもいつもあかぎれのことが書かれていましたから。  黒原さんによると、来年のカレンダー分の絵12枚、早くも書き上がったということでした。嬉しいことに、今黒原さんをつうじて、全国の受刑者の方がたの通信に章寛さんのポストカードが使われ始めているそうです。  体調、精神面も良いようで、請願作業も順調におこなっていて、前回は『黒原さんの旅費に』と5,000円の宅下げがありました。黒原さん感激してました。  共命鳥の第2号も届きました。表紙の挿絵花火、実は宮崎の幼馴染の方からの写真の差し入れを見て書いたそうです。次号からはもっとスペースを拡げて大きく掲載します。  切手や現金のお礼の葉書や、封書については拘置所がわから、いろいろと注意を受けていて、どうやら今後は挿絵を入れたり、文章をいれないようにといわれているみたいです。 たまたま、荒牧からの手紙と、入れ違いになってしまいましたが、荒牧も久しぶりに長文の手紙を書いたところだったので、またすぐに返信がくるかもしれません。そしたら、すぐに報告します。                                   
■外部交通、面会願い不許可  6月から7月にかけて、中からは章寛君が、外からは荒牧が面会許可を願い出ましたが、いずれも不許可となりました。私たちにとっては事件についての振り返り、真の意味での謝罪につながる捉え返しのためにも絶対に面会が必要と感じていますが、拘置所は許可を出してくれません。あきらめず、手紙や葉書のやりとりを続けながらまた願いを出してみるつもりです。又章寛君もMさんもお互いに面会を望んでいますので、二人の願いも叶うようにオークスとして支援を続けます。 ・ 8月19日 黒原さんとご両親の面会報告から この暑かった夏、もちろん拘置所にクーラーはなくうちわが大活躍しているとのことです。そして、請願作業と就寝時以外はほとんど上半身裸ですごしているということです。髪は一時横だけ刈り上げたモヒカン刈りに近いような髪型になっていたようで、お父さんは変な頭をしていた、と言っていましたが、お母さんはそれなりに精悍なかんじだったとの感想でした。ただ次の面会時にはもう丸刈りに戻っていたということです。多分本人も区分転換が必要と感じていたのでは?お父さんは何となく安心したようでしたが。 おばあちゃんも続けて面会に行っています。二人とも緊張がとけてきてだんだん普通のかんじで話ができるようになってきています。  とにかく、請願作業を中心にがんばっているようですが、最近になってようやく絵にもとりかかりはじめて来年のカレンダー制作に向けてうごきだしたようです。そうそう、共命鳥の表紙用に依頼したイラストも届きました。期待していてください。  私(荒牧)との手紙のやりとりの中では、捉え返しの文章についても触れていて、前向きに取り組んでいるようです。お互いにまだまだ時間がかかりそうですが。 一時の何もしたくない症候群からは完全に脱したようで、元気な様子の章寛くんです。

■6月17日 章寛さんから手紙が来ました。その手紙の内容とご両親とおばあちゃんの今回の面会で解ったことなどを併せてご報告します。まず第一にうれしかったこととして、ご両親の差し入れで、「共命鳥」と「続青空」が章寛さんの手元にそのまま届いたということです。荒牧のところに来た手紙に、それらを読んでの意見、感想、希望等が書かれてあったので、間違いありません。このことの意味するところは大きいと思います。特に今後通信「共命鳥」がちゃんと届くのであれば社会とそして我々と章寛さんを繋ぐパイプがひとつ増えたことになります。編集に細心の注意を払いながら章寛さんを支え、励まし、そしてそれこそ章寛さんの今を社会につないでいく役割を果たしていきたいと思います。袋張りの請願作業についても詳しく書いてありました。章寛さんがやっている作業はいろいろなお店の大小さまざまな紙袋を作ることで、現在はまだ3000円に満たない(ひと月)が、大分慣れてきたので仕事さえあれば3000円は超えられそうだということ。そのお金を貯めていって来年の三月には亡くなった3人の菩提寺に写経したものと一緒に読経代(供養)をお供えしたいと書いてありました。ご両親には亡くなった勇登くんのためのランドセルが買いたいとも言っていたそうです。その他、被害者遺族Mさんに会いたい、その時Mさんが福岡に来るための旅費の足しにもして欲しい、謝罪の手紙も再度書いているそうです。こうみてくると章寛さんのなかにこれから先のことに希望を見出して、生きようとする気力が湧いてきていることが読みとれる手紙でした。あと他にもDVDを週2回見られるようになったこと、切手その他の差し入れに関する細かいこと、「続青空」のなかの表現での納得のいかない部分についてなども書いてあり、この件に関しては黒原さんと確認したうえで(黒原さん執筆の部分なので)、章寛さんに伝えようと思います。                         

■5月30日 奥本家を訪問しました。   その時宮崎に行って来た時のことなど、色々話しましたがその折祖母良子さんのところへ来た章寛さんの手紙をみせていただきました。すごくいらいらした文面で、あれを頼んだのに、全然届かない、これを聞いたのに全然進まない、なんとかならないのか、といった調子でいらだち、もどかしさがすごく現れていました。でもそういう一面を家族にだからこそ見せて甘えているようで思わず笑ってしまいました。27歳のどこにでもいる、普通の青年としての章寛さんなのだと改めて感じました。  「荒牧さんが来てくれたら、章寛のことを朗らかに話せる」と、父親の浩幸さんがぽつんと言ってくれたのもとても嬉しいことでした。                                       
■5月9日  、5月21日 黒原さんや、ご両親の面会時の章寛さんは前回に比べるとかなり元気を取り戻してきていた様子だったそうです。荒牧のところに来た手紙(5月24日付け)にも書いてありましたが、袋張り作業も今では楽しみの一つになっているようで、金額はなかなか上がらなくてもやはりそれが、自分にできる具体的な償いのひとつだということで、はりきっているようです。手紙によると絵もまた描き始めたようですし、ラジオで、相撲や、野球放送を聞くことも楽しみだということです。主に聞けるのはRKBラジオで時間帯と番組が決められているそうですが、今度具体的に聞いてみます。事件の文章化についても以前の手紙では、もう出来そうもありません、と書かれていたものが、今回はやはり、自分にむちうってでも自分が書くべきだと、その受け渡し方法まで含めて前向きに書いてありました。何もしたくない症候群から少しづつ脱してきているようです。

■4月17日、黒原弁護士が面会に訪れました。 その報告によると、章寛さんに元気がなかったそうです。会えた時には笑顔も見せてくれたそうですが、本人曰く「何もする気が起きない」ということです。それでも写経は続けているし、請願作業も始めて袋張りもしているらしいのですが、それが、頑張っても千円ちょっとにしかならず、無力感にも苛まれているようです。何より、外部交通が遮断されていて、ごく僅かの人としか関われなくなったことが、そうとう影響しているようです。処遇の改善が急がれます。  受刑者の心情の安定ということが、拘置所側のお題目ですが、心情の安定というのは、無気力にしていくということとは違うはずです。どのようにすれば、少しでも処遇が改善され、章寛さんが元気を取り戻せるか?皆さんのお知恵をお貸しください。

■4月9日の家族の面会   母親和代さんと、下の弟隆嗣さんが面会に訪れました。以前よりさらに痩せていたそうですが、表情はむしろキリっとした感じだったらしいです。ただ、宮崎のころと比べて笑顔が固いというのが母親和代さんの印象だったそうです。その後和代さん、おばあちゃんに来た手紙を見せてもらいましたが、窓から桜が見えた。何年かぶりに桜を見たということが、とても嬉しそうに書いてありました。以前学習会の折りにどなたかが「いのちが深まる」ということをおっしゃっていましたが、まさに、今の章寛さんはそういうことだと感じます。            
■2月11日  前回に続き、というよりこのページは限られた方々の面会時の情報からの伝聞になります。形式もこのページの管理者が、章寛君の答えたこと、発言したこととして掲載します。 事件から5年経っての心境は、やはり後悔しかないです。自分のしたことにたいして。裁判にかんしても思うこととして、うまく話せなかった。答え方も全然駄目でした。その意味もあって、心理鑑定は第1審でやってほしかった。  何故あの時踏み越えてしまったのか?逃げなかったのは、くみ子、雄登を捨てるような感じがしたからです。3人での生活を望んでました。  自殺?自殺を考えることはあります。しかし自殺をしたくなることはありません。今は苦しいので、病気や心臓発作で死ねたら楽だろうなとは思います。死=苦しみからの解放というイメージからだと思います。だからと言って死にたいとは思いません。今だから言えること?うーんうまく言えないけど『人生は生きるに値する』ということです。こんな境遇で、こんなところにいる僕だけどそう感じています。だから、自殺、自分で命を絶つことはいけないことです。  償いについては罪と向き合うこと、事件のこと、くみ子や義母との間で何があったか、その時何を考えたか、行動したか文章にしてとらえ返し、そのうえで反省を深めたいと思います。弟さん(Yさん)への弁済、出来るだけ多くの慰謝料を届けたい。  つらいと思うこと?家族のことを思うとつらいです。Yさんのことを思ってもつらい、落ち込みます。事件と向き合うことは本当に苦しい、出来ることなら向き合わずにすむならと思うこともありますが、それは許されません。  両親、黒原先生、支える会の方がたに対しては、一生懸命に生きようとする姿を見せることが、今自分に出来る唯一の恩返しです。                                                     
■1月31日  今回は、ご両親の面会、黒原さんの面会、そして荒牧のところへきた手紙からわかる範囲・最新の章寛さん情報をまとめてご紹介します。  現在の部屋の広さは(単独室)、縦・約3m×横・約1.7m、高さ約3mほどだそうです。部屋に大きな窓、約1.2m×1.2mとそのすぐ下に50p×1.2mの窓があります。開け閉め可能で、外気が入るのが嬉しいと。  入浴が週2回(火曜・金曜)。入浴日以外の平日には、戸外運動(1時間)。それとは別に室内運動が朝・昼・晩、各30分。寒さが厳しくしもやけがひどくなっている。絵などは描けていない(何にもしたくない症候群になっている)が、事件のとらえ返しのための準備は、はじめている。今、一番会いたい人は、おばあちゃん。今の気持ちは?という質問に対して、“とうとう死刑囚としての生活が始まった”と実感した。1月5日からは、いつ執行されてもおかしくないと感じている。朝はいつも緊張する。歯をみがいたり、ひげを剃るときに、これが最後かな。と思う。その緊張から解放されるのが、面会時間となる8:30分くらいである。“あ〜今日は執行されなかった”と感じる時間である。今やっているのは。写経・祈り・日記。これは欠かしたことがない。お札と数珠は許可をもらって手元にある。確定死刑囚になって、これからどのように過ごしていくか?という質問には、1番は、事件に向き合うこと。そしてその内容を文章にしたいと思っている。反省にもつながると思っている。死刑が確定して、手紙が不許可になったことがつらい。今後、どのようにして罪を償っていきたいか?という質問には、写経・慰謝料の支払い・事件を捉え直して、反省を深めること、に尽きると思います。確定するまでは、償い=執行されること、と思っていました。しかし、確定したあとで、変わりました。最高裁判決後には、「雄登、俺もそっちにいくからな」という気持ちは今も全く変わりませんが、今、思うのは、償いとは、“生きること”だと思っています。その“生きる”とは、自分の人生を、ではなく、“償いの人生を”です。償いの人生については、考え続けなければなりませんが、償いの意味を考え続けることだと思います。自分は、そのようにこれから生きていきたいです。簡単に(ただ)死んではいけない気がしています。何かしたいです。    以上のような処遇と心境の中で懸命に生きている章寛さんです。               

■1月16日    昨年12月宮崎で集会のあった折り、以前豊前の岩屋地区に住んでいたことがあり、現在は宮崎に住んでおられるKさん姉妹がわざわざ駆け付けてくれました。また、その帰り道、西都市で、奥本くんがまだ小学生のころ一緒に剣道をしたことのあるYさんという、Kさんの娘さんにあたる方にも会うことができました。そのYさんが、章寛くんとの手紙の交流が認められた、という嬉しい報告をご両親宛てに手紙を下さいました。ご本人の了解を得ることが出来ましたので、ここで紹介させていただきます。                     

奥本あっ君のお父さん、お母さん今日は12月25日です。サンタから私にクリスマスプレゼント届きました。あっ君からの手紙です。合わせてくれたように今日届きました。そして内容は私との手紙のやりとりが許可されたと書いてありました。駄目だと思っていたので、こんなにうれしいことはありません。たまりません。(中略)           不思議な事です。あっ君に面会に行った時(宮崎)、とっても笑顔が似合っていて、昔のあっ君そのままだし、普通の男の人だったし、あっ君だった。あの子が本当に殺人を犯したのか?夢じゃないのか?何で殺したのか?私には不思議で。現実なんだけど、と仕事しながら考えている日があります。         (中略)         最後に、、何故死刑囚は手紙のやりとりを(そして面会を)親、弁護士に限定するのか?ネットで調べてみると、『外部とのやりとりを遮断し、死をみつめ、生きる気力を失わせるため(省略)』などと書いてありました。ア然としました。確かに死に対する怖さはあります。あるだろうけど、毎日、何年も生きる気力を無くし、過ごすことはとんでもないものです。『生きる気力を失わせる』、あっ君は絵を書いてるから大丈夫とも言えません。やっぱり心配。私は宮崎から手紙を書き続けます。たわいもない話だけど。岩屋小時代、剣道の仲間だった、一緒に学んだ友達。励ましあった、私とあっ君。忘れんよ!!                あの時本当に苦しかった。剣道嫌いやった私。6年までつづけられたのもあっ君のおかげやし。私、あっ君支えるから!  おじちゃん、おばちゃん!私は手紙書くからね。安心してよ、おじちゃんもおばちゃんも。体に気をつけてね。雪道にも気をつけてね。また、手紙かきます。         西都市 Y    12月27日    

■12月8日 黒原さんが面会に行きました。再審請求弁護人として。16日にはご両親と、弟さんも福岡に移ってから、初めての面会に行かれました。章寛さんはいつものように、笑顔で迎えてくれました。一日三回運動が出来ること、食事面が良くなって、メニューにカレーやハンバーグ等増えて、ファミレスみたいだと喜んでいたそうです。ただ、寒いのは、寒いらしく、(4年ぶりに雪を見たとか)防寒など、どうなっているのか?気がかりです。今のところ外部交通者として、認められたのは、弁護士2名、家族5名だそうで、支援者としての荒牧は除外されました。一応荒牧に関しては手紙のみ可能ということで、先日荒牧のところに章寛さんからの手紙は届きました。すぐに返信を出しましたが、無事にそのまま本人のところまで届いたのかどうかは不明です。ご両親の話や手紙の文面からは、相変わらず前向きで元気な様子が伺えます。  今後、もう少し様子がわかってくれば、詳しく章寛さんの様子、処遇等お伝えしていきます。

■11月27日   夕方の黒原さんからのメールで、章寛さんが11月26日付けで「福岡拘置所に移送された」という電報がグローバル総合法律事務所に届いたという知らせがありました。下記にあるように12月2日までは移行期間という情報だっただけに、緊張が走りました。前日ご両親と会った際も何も言ってなかったので、恐らく両親も弁護士も知らされないまま、移送されたもようです。そんなものなのかと思いますが、こんなふうにいろいろなことは周りには知らされないまま進んでいくのだと覚悟しておかなければならいようです。        

■11月24日  奥本君は、11月19日から確定処遇へと移行しました。ただし、12月2日までは、移行期間のようで、一般面会や手紙の やりとりは可能なようです。 私は、「再審弁護人」としての面会がスタートしました。立会人なしでの面会です。奥本君は、かわらずです。カレンダーの完成を楽しみにしている様子です。(黒原弁護士のメールより)                                                
■11月17日  両親が面会にいきました。とても元気で、前向きな様子にご両親のほうが励まされたそうです。処遇に関してはまだ変更はなかったようですが、その日から10日を目途に面会ができなくなりそうだ、と言ってましたので、今月の26日か、27日がリミットになるかもしれません。今後面会が可能な特別面会人は家族、弁護士含めて10名までだそうです。家族は5名登録予定ですので、一般の人は3名程度です。荒牧は登録申請させてもらいます。                                                           ■10月28日  面会に訪れた際、荒牧が「大丈夫かい?ちゃんとうけとめられてる?」と聞くと、章寛さんは「僕はもう、潔く死ぬ気は全く無くなりました。仏教に出会い、命の尊さを知ったし、被害者家族に弁済し続けるためにも生き続けます。。それが亡くなった三人への罪の償いにつながるかもしれないし、、支援してくれる人たちへの恩返しにもなると思うからです。」と力強く話してくれた。「最高裁の判事さんたちは、みんな全く風邪をひかない人たちですよね」というジョークも付け加えて。今欲しいものとして、小六法をあげてもいた。今は詳しくはいえないが、章寛さん的、ウルトラCを考え付いたということで、確かに弁護士もあっけにとられるような案だった。本当に元気に前向きに一生懸命、一日を生きている章寛さんで、三人ともしっかり励まされ笑顔で別れることができた。   ・ 10月17日  章寛さんは、判決の結果を夕方聴ける、地元のラジオ放送で知ったそうです。覚悟はしていたけれど、やはり動揺はあったようです。  それでも翌日のTBSの取材班の面会時には気丈に「覚悟は出来ていましたから僕は大丈夫」と答えたそうです。ディレクターの西村さんは何回も面会に行っていますが、「弟たちを死刑囚の兄弟にしてしまったことが申し訳ない」と答えた時、初めて涙を見せたと言っていました。  「これからは一日、一日を一生懸命生きる、それが償いにつながると思うから」と言葉を締めくくったそうです。


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